境内ご案内

    • 浅間神社

      祭神 木花開那姫之命(このはなさくやひめのみこと)

       拝殿の東側の小高い塚の上に石碑がある。裏面には「明治40年8月再建 駒林中」と記されている。これはもともと、仙元講の盛んだった頃に講社が小字伊佐島に土盛りを作り、その上に社(やしろ)を建て祀っていたものである。 駒林地区には山吉講と呼ばれる講社の存在が確認されている。現在の石碑は合祀の際に再建されたものである。
       現在、講社はなく、既に大正初期の「郷土誌」にも「講社は自然と亡びたり」と記されている。

      浅間神社
    • 鷺宮神社

      祭神 大巳貴命(おおなむじのみこと)

       駒林地区の東、小字で鷺森にあり、住民からはサギモリサマ(鷺森様)、サギノミヤと呼ばれる。社名の由来について「郷土誌」では、住古から老杉が鬱蒼としており、数千羽の白鷺が集まって雪山のようになっていたことからその名がついた。と伝えている。 「風土記稿」には以下のようにある。
       鷲(鷺)ノ宮 相伝ふ、当社は勝瀬村内(注:現在の富士見市勝瀬地区)榛名神社の属神なる由、元は此村の鎮守なりしが、いつ頃か改まりて今は八幡を鎮守とせり、村内安楽寺の持なり。
       もともと駒林の鎮守であったという言い伝えは、「八幡神社について」のページにも記載の通りである。明治初期の様子を伝える「郡村誌」では「神社東西17間6分南北6間面責160坪とあり、合祀前の当社が小規模な神社であったことがうかがわれる。 明治末期までは、神楽は八幡神社と交互に行っており、七五三の参拝も鷺宮神社に先に行った家もあったという。その後、当神社は明治40(1907)年に一度八幡神社に合祀されている。現在、鷺森にある社は昭和50年ごろに元の社地に復祠されたものである。復祠に当たっては、当時地区内で良くない事が続いたのをきっかけに、付近の13軒の方々が中心になって行われたという。
       祭日は「郡村誌」には4月1日とあるが、現在は月遅れの5月1日に行われている。当日は勝瀬の榛名神社の宮司が招かれて神事を、まず復祠に当たった付近の住民が参列するなかで行われる。その後に八幡神社で氏子総代、駒林自治会代表者が参列し、社殿祭典が行われる。

      鷺宮神社
    末社 ⑥〜⑩ 末社
    • 八坂神社

      祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)

       明治3(1870)年神仏分離の際に牛頭天王(ごずてんのう)として祀られたものを改称したもの。テンノウさま(天王様)と呼ばれる。
      永正年間(1504〜20)に疫病が流行したときに、牛頭天王に祈ったところ苦難を免れたため祀り始めたという。(郷土誌)
      祭日は毎年7月14日〜15日で子供神輿が出ていたが、交通事情の悪化のため、昭和59年から神輿の巡行は中止になっている。現在では榛名神社の宮司により神社前で式典が行われている。式典には神社役員、自治会代表など10数名が参列し、後に社務所で直会を行っている。氏子が各自参拝に来ている。

    • 稲荷神社

      祭神 保食大神(うけもちのおおかみ)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

       小字土橋・東北原・山神の稲荷を合祀。元の山神の稲荷神社の傍には小池があり、毎年この池に種籾を浸して苗代を作るので、種冷池と呼ばれていたという。 ただし、明治の末期にはすでに池の水は枯れて窪地を残すだけとなっている。(入間神社誌)祭日は2月の初午である。この日は氏子会年番7組が各組ごとに社務所や駒林会館に集まり稲荷講を行っている。

    • 神明神社

      祭神 大日霎命(おおひるめのみこと)

       小字生勢ヶ谷にあった社を合祀「郷土誌」には古老の伝えるところとして、元禄年間(1688〜1704)のころまでは毎年伊勢神宮に代参を立てて大麻(おおぬさ)を納めていたが、当時既にその習慣もなくなったとしている。

    • 疱瘡神社

      祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)

       天文年間(1532〜54)に疱瘡(ほうそう)が流行したとき以来、祀られるようになったという。「郷土誌」から。

    • 山神神社

      祭神 大山祇命(おおやまづみのみこと)

       小字山神にあった神社を合祀。もともと祀られていた山神という所は老杉の生い茂る鬱蒼とした場所だったというが、正保年間(1644〜48)当時の地頭がこの木を伐採した際、社があったので一本残し神木としたという。「郷土誌」から。