八幡神社について

歴史・由緒

八幡神社の概要

所在地
埼玉県ふじみ野市駒林890
創建年月日
不明
祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと 応神天皇)
宮司
鈴木美徳(富士見市勝瀬 榛名神社の宮司兼務)
境内社
鷺宮神社(さぎみや)
祭神 大巳貴命(おおなむじのみこと)
八坂神社(やさか) 
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
浅間神社(せんげん)
祭神 木花開那姫之命(このはなさくやひめのみこと)
山神社(やまかみ) 
祭神 大山祇命(おおやまづみのみこと)
神明社(しんめい) 
祭神 大日霎命(おおひるめのみこと)
稲荷神社(いなり) 
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
疱瘡神社(ほうそう)
祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)

沿革

 江戸時代以来、旧駒林村の鎮守とされた神社で、創建については文書や石造物がないために不明である。土地の口碑によれば、字鷺森の鷺宮神社が 当初は駒林村の鎮守であったが、領主の旗本小栗平吉が武家の神である八幡大菩薩(誉田別命)を信仰して八幡神社を創建したところ、土地の者も八幡 を信仰するようになり、いつしか鎮守とされたという。「風土記稿」 には「若宮八幡神社」とある。「鳩」が神使であり、そのため八幡神社の大鳥居の「八」の字は鳩の形になっている。
 現在神社がある辺りは、地頭小栗平吉の所有する畑であった。あるとき、その林に薪を積んでおいたものを役人が取りに来たら、大きな蛇がいて、 中々どかなかった。そこで役人がその蛇に「八幡神社を祀るからどいてくれ」と言ったら蛇がどいたので 八幡神社を建てたのだという。
 江戸時代は同村の天台宗 安楽寺を別当(神社の所有者)としてその支配を受けており、元禄11(1698)年の「武州入間郡駒林村諸色明細帳」によれば 「境内 三反拾八歩(約79.87アール)」の規模であった。他に旗本小栗氏から与えられた「免田 八畝拾歩(約8.01アール)」と地主源左衛門持ちの「免田 九畝拾歩(約9.24アール)」が八幡神社運営の財源とされていた。明治維新以降、神仏分離により安楽寺の別当は廃止され、駒林村の地区の管理に 移った。宮司も稲生家、鈴木家と受け継がれ、現在は鈴木美徳氏が勤めている。
 明治5(1872)年に駒林村の村社に指定され、明治22(1889)年には旧福岡村(ふじみ野市上福岡地区の前身)の村社になった。大正15(1926)年6月には神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進(きょうしん)神社に指定された。
 現在の社殿が建立された時期は不明であるが、神社明細(埼玉県行政文書)には明治27(1894)年に本殿が改築され、拝殿が新築された記録がある。明神型の石鳥居は氏子により幕末の万延元(1860)年8月に建立されたものである。一間社流造の本殿は、社記に「享保19(1734)年11月15日社殿再建」 とあり、内陣に騎乗の八幡名神像(24センチ)を安置している。

境内社

 境内の神社は明治40年代に駒林地区の神社を合祀したものが多く、市立さぎの森小学校西側の字鷺森から鷺宮神社、新河岸川沿いの字伊佐島から浅間神社、安楽寺西方の字山神から山神社、八幡神社のある字生勢ヶ谷戸から神明社、江川南の字土橋、字東北原、字山神から稲荷神社を合計3社が八幡神社に合祀された。
 多くの神社の由来沿革については不明であるが、浅間神社については、合祀以前は富士塚と呼ばれ、「入間郡誌」によれば、宝暦8(1758)年に造立された小石祠(しょうせきし)もあったという。現在では全く絶えてしまったが、江戸時代後期まで駒林村には山吉講(やまきちこう)と呼ばれ富士講が活動していたことが確認されている。 塚をめぐる信仰については、富士講との関係が推測されるが、塚自体の存在は元禄12(1699)年の検地帳・明細帳にも確認されるので、講の成立以前に村民が造立したものである(現在塚は平成15年7月総代と職人により改修されている)。
 八坂神社と疱瘡神社はもとから境内にあったものと考えられる。大正元(1926)年の「入間郡福岡村郷土誌」には八坂神社と疱瘡神社に残る伝承が紹介されている。八坂神社については、戦国時代の永正年間(1504〜20)に悪疫が流行した時に牛頭天王(ごずてんのう)を疫病除けの神として祈願したところその難を逃れることができたことから社が建立されたという。 疱瘡神社については、同じく戦国時代の天文年間(1532〜54)に疱瘡が流行した時に人々が恐れて祀ったという。

御祭神

応神天皇(おおじんてんのう)漢風謚号/ 大鞆和気命(おおともわけのみこと) 古事記/
誉田別尊(ほむたわけのみこと)日本書紀/ (記紀系譜上の第15代天皇)
 五世紀前後ごろの天皇。第14代仲哀天皇の第四皇子で、母は神功皇后
仲哀天皇は、息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと)と結婚し、皇后(神功皇后)に立てた。その二人の間には、品夜陀和気命(ほんやわけのみこと)、次いで大鞆和気命(おおともわけのみこと)、またの名を品陀和気命、すなわち第15代応神天皇をもうけた。神功皇后は三韓征伐のとき、応神天皇を身籠もっていて、朝鮮から凱旋すると、待ち構えていたかのように応神天皇が生まれた。 日本書紀には「天皇、皇后の新羅を討ちたまひし年、歳次庚辰(仲哀9年)冬十二月を以て、筑紫の蚊田に生れませり。幼くして聡達くいます。」とある。また同じく日本書紀では誉田別尊(ほむたわけのみこと)と書かれ、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)とも呼ばれる。神功皇后が崩御した翌年に即位。
 応神という諡名(おくりな)の出典は不明だが、126代に及ぶ天皇の中で神の字がつく天皇は初代神武、第10代崇神、そして第15代の応神以外にはない。また神武、崇神は両者とも「ハツクニシラススメラミコト」と書かれており、初めて国を建てた天皇であるとしている。

応神天皇
集古十種より「応神帝御影」
誉田八幡宮

 神の字の付くのは、このほかに神功皇后がある。神功・応神の母子は、母子信仰のあらわれとみられるが、多くの史家が応神天皇期をもって歴史時代の始まりであるとし、神功・応神期をもって、日本の国家確立期としていると言っても過言ではない。
この時代は国内、対外関係に関する事績が多く伝えられる。国内では、山守部(やまもりべ)・海人(あま)・吉野国樔人(よしのくずびと)らを従え、東蝦夷(ひがしえみし)の朝貢を受けた。また筑紫に武内宿禰(たけのうちすくね)を派遣して農民を統轄させ、吉備国(きちびのくに)には自ら行幸するなど、支配権の拡大・強化が強調されている。
 またこの時代には、三韓からの文化が仕切りに渡来した。衣縫部(きぬぬいべ)の祖とされる弓月君(ゆつきのきみ)が百済(くだら)120県に住む人々を率いて帰化したのも応神天皇14年のことであった。ついで15年には、百済王の太子・阿直伎(古事記では阿知吉師(あじきし)とある)の来朝があり、さらにその翌年には、やはり百済から王仁(わに)(和邇吉師(わにきし))が論語・千字文を持って来朝し、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となった。なお王仁は文首(ふみのおびと)の祖であり、河内国に住み文筆を専門とした西文氏(かわちのふみのうじ)でもあるともいわれる。
 応神天皇はのちに八幡信仰と結びつく。八幡神社は日本で最も多くの末社を持つ複雑な信仰のある神社であるが、その本源は九州の宇佐八幡宮である。「延喜式」によれば、祭神は八幡大菩薩・比売神・大帯比売(神功皇后)の三柱となっている。そして、八幡大菩薩を応神天皇に擬している。現在でも、全国の八幡神社では応神天皇・比売神・神功皇后の三神を祀っているところがほとんどである。
応神天皇の皇子は11柱、皇女は15柱で、あわせて26柱と伝えられ、天皇は130歳で甲午(きのえうま)年9月9日に崩御されたと古事記にあり、日本書紀では、御子は男女合わせて20柱とし、応神41年春2月15日、110歳で崩御されたとしている。

応神天皇を祀る神社

宇佐神宮(元官幣大社
大分県宇佐市
石清水八幡宮(元官幣大社)
京都府八幡市
氣比神宮(元官幣大社)
福井県敦賀市
筥崎宮(元官幣大社)
福岡県福岡市東区箱崎
鶴岡八幡宮(元国幣中社)
神奈川県鎌倉市
忌宮神社(元国幣小社)
山口県下関市
函館八幡宮(元国幣中社)
北海道函館市
藤崎八旛宮(元国幣小社)
熊本県熊本市
柞原八幡宮(元国幣小社)
大分県大分市
千栗八幡宮(元国幣小社)
佐賀県三養基郡みやき町
扶余神宮※(元官幣大社)
朝鮮・忠清南道扶余郡扶余面(※造営の途中で日本の敗戦をむかえ、鎮座されることはなかった)